8月9日は長崎に原爆が投下されて70年。小倉北区勝山公園の慰霊碑の前では、原爆で亡くなった犠牲者を慰霊し、恒久平和を祈る祈念式典が開催されましたので私も出席しました。
式典では、原爆被害者の会・吉田龍也会長と、北橋健治北九州市長などが挨拶した後、原爆投下時刻の午前11時2分には、平和の鐘の鳴る中、全員で黙とうを捧げました。
今年は、大学生による平和の灯の献灯や幼稚園時による千羽鶴の奉納のほかに、北方小学校・思永中学校・北九州市立高校の児童生徒による「北九州市非核平和都市宣言」の唱和も初めて行われました。
その後、参加者はそれぞれ白菊の献花、献水、点鐘を行って式典を終えました。(写真は非核平和都市宣言を唱和する児童生徒と、配布された「北九州市非核平和都市宣言」。)
良く知られているように長崎原爆の投下第一目標は、西日本有数の兵器工場が存在していた北九州・小倉でした。当日の悪天候によりB29は長崎市に向かい原爆を投下しました。
この事実を踏まえ、北九州市では2010年2月10日、改めて「北九州市非核平和都市宣言」を行うとともに、広島・長崎市が主導する「平和首長会議」にも参加したほか、小中学校に長崎原爆ゆかりの嘉代子桜の植樹を続けるなど、戦争の惨禍と平和への願を風化させない取り組みを続けています。
70年前も長崎市は暑い日だったといわれています。
同じような勝山公園の今日の暑い日差しの中で、私も慰霊碑の前で、原爆犠牲者のご冥福と平和への思いを新たにしました。
世界で唯一核兵器による惨禍を経験している日本が、今後も世界から核兵器を廃絶させようとする取り組みを強化することは、世界の人々に対する日本の大事な使命でもあると思います。
にもかかわらず、今年4月に国連本部で開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、核兵器の非人道性を訴える核兵器禁止文書に対し、アメリカに配慮する日本は、文書に賛同しないという態度を続け、結局、会議は実りなく決裂してしまいました。
40年以上も堅持してきた集団的自衛権の行使はできないとする解釈を強引に覆し、アメリカの尖兵となろうとするかのような安倍政権の態度を見れば、口では核廃絶と言いつつ、その実は全く本気ではないのだと、世界からそう見られても仕方がないのではないでしょうか。
何とも情けない限りではあります。
アメリカに追随して核兵器による抑止力を強調し、対立を深めることよりも、例えば中国・北朝鮮を含む「北東アジア非核兵器地帯」の実現によって、緊張緩和と平和への道を切り開く努力をするほうが、戦争被爆国・日本として、本来とるべき道なのではないかと思います。
外務省による『日本の軍縮・不拡散外交』という文書に「北東アジア非核兵器地帯構想」の言葉が初めて登場したのは、2011年、民主党政権の時でした。
緊張を生み対立を煽る日本から、平和と友好を創りだす日本へと転換するチャンスでもありました。
残念ながら潰え去った民主党政権の総括と同時に、平和を創りだす水脈を、改めて掘り起こす作業が求められている気がしています。