新型コロナ禍の下、戦後75年の沖縄慰霊の日

6月23日、沖縄では戦後75年の節目の「慰霊の日」を迎えました。
沖縄県糸満市の平和祈念公園では、県と県議会共催の「沖縄全戦没者追悼式」が行われましたが、今年は新型コロナウイルス感染症の影響で、出席者を絞り、規模を縮小して実施されたと報道されていました。
沖縄戦で犠牲になったすべての人々のご冥福を、心よりお祈り申し上げる次第です。

太平洋戦争では、1944年のサイパン陥落後、東条英機内閣が総辞職に追い込まれたのちも、日本陸海軍はあくまで「戦争の完遂」を期するとし、その後、フィリピン決戦で敗北、日本側戦死者は約38万人、フィリピン人犠牲者は約100万人に上ったとされますが、陸海軍統帥部はさらに本土決戦の決意を固め、「その防御態勢整備の時間を稼ぐため、沖縄はじめ周辺地域での徹底した持久戦を指示」しました。
1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸、激しい戦闘の末、6月23日に、現地日本軍の組織的抵抗は終了しました。
日本軍戦死者は約9万4000人、沖縄一般住民の犠牲者も約9万4000人。沖縄住民犠牲者は、じつに沖縄全人口の4分の1を超えるものでした。
以上は、川田稔著、『昭和陸軍全史3』(講談社現代新書)によります。

同書では、続いて大田実海軍沖縄方面根拠地隊司令官が、自決前、海軍次官あてに発した電文も紹介されています。
「(沖縄)県民は青壮年の全部を防衛招集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却せられ、わずかに身をもって軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難。なお砲爆撃下、風雨にさらされつつ乏しき生活に甘んじありたり。・・・一木一草焦土と化せん。糧食6月いっぱいを支うるのみなりという。沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを。」と。
戦後75年、後世の日本政治は、多大な犠牲を払い続けてきた沖縄県民に寄り添い、特別の配慮をしてきたと言えるのでしょうか。
沖縄慰霊の日にあたって、改めて考え込んでしまいます。

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