釜石市と大槌町へ

釜石市には午前9時前に着きました。実に38年ぶりの釜石市です。

学生時代のサークル活動の前後を利用して、ある時、三陸海岸北方の田老町から、途中ヒッチハイクをしながら釜石市を訪れたことがあるのです。田老町から、美しい海岸線眺めながら南下してきて、着いた釜石市は、当時まだまだ鉄の町として活気があったと記憶しています。

ヒッチハイクをスタートした現宮古市田老町には、すでにスーパー堤防が完成してそびえ立っていました。当時、私は町の人に「これは何ですか?こんなでかい堤防が必要なんですか?」とお聞きしたところ「昔なあ、ものすごい津波があってなあ。村全体が呑まれたのだ。だから堤防で防ごうとつくられたのだ。」とのお話しを聞き、唖然としつつも、そんな大きな津波が来ることが本当にあるんだろうかと信じられない思いがしたものでした。

大学に帰ってから、明治三陸大津波の記録などを読んでみました。そこには、山の上から眺めていると遠くの海が20メートルも盛り上がり、やがて村全体を飲み込んでいった等の記述があって強い印象に残りました。しかし、まさかそれほどの津波が、私が生きている間に再びあの三陸の町々を襲うなど考えたこともありませんでした。

 

JR釜石駅あたりまでは津波は襲っていなかったので、ごく普通の風景ですが、港方面へしばらく行くと一変。震災から半年たっているというのに惨状がひろがっていました。8700トンという大型船が岸壁に乗り上げている光景はメディアにもよく登場していますし、周辺の被災状況は理解していたつもりですが、現場に来てみるとやはり津波のパワーと恐ろしさを実感しました。

北九州市から支援に派遣されている東課長の案内で、鵜住居小学校・釜石東中学校にも行きました。

釜石市では、それまでの防災教育によって学校の管理下にあった小中学校の児童生徒約3000人の命がたすかりました。「釜石の奇跡」と呼ばれて称賛されています。

中でも、小中学生が、周りの保育園児やお年寄りにも気遣いながら自主的な判断で避難しつづけて学校の全員が助かった鵜住居小学校と、隣接する釜石東中学校は注目されました。

私は、その避難の実情を知りたいと思っていましたが、現場を訪れてみると、子どもたちは相当な距離を自分たちの判断で避難し続けていたのだということに感心しました。当初の予定避難所にとどまっていたのでは被災を免れませんでした。子どもたちは自分たちの判断で、もっと高台まで、さらに高いところにある石材所へと、状況を見ながら避難していました。「災害に上限はない、自分の判断で逃げろ。てんでんこだ。(自分たちそれぞれだぞ)」と教えながら、実際に訓練を続けてきた大きな成果でした。

釜石市の防災教育は、群馬大学の片田敏孝先生が永年指導されてきました。その片田先生は、北九州市の地域防災計画見直しの座長にもついていただいています。

その後は、がれきの中間処理作業を続けている現場を訪ねて、がれき処理の現状と、かかえる課題についてレクチャーを受けた後、隣町の大槌町へ。

ここでも町長さん以下、数多くの方々が亡くなり、壊滅的打撃を受けました。庁舎の正面の時計が津波が襲った午後3時30分で止まっていたままだったのに心が痛みました。

釜石市へ戻り、副市長さんと議長さんにそれぞれご挨拶した後、北九州市から派遣されている職員の皆さんと懇談。ご苦労をねぎらうとともに、いくつかの要望も聞いて善処することを約しました。


 


釜石市.jpg



鵜住居小学校.jpg



がれき中間処理.jpg



大槌町役場.jpg

(写真は、それぞれ釜石市海岸近く、鵜住居小学校、がれき中間処理の現場、大槌町役場)

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