すさまじいまでの小泉自民党勝利でした。民主党は力及ばず113議席に終わり、政権交代が実現しなければ退陣するとしていた岡田代表は辞職を表明するに到りました。
「小泉新党」という錯覚
今回の選挙で示された国民の小泉自民党への強烈な支持は、従来の自民党的なものへの支持ではないとみるべきでしょう。つまり自民党対民主党の枠内で、自民党に勝利を与えたのではなさそうです。でなければ、こんなに反自民党層まで取り込むことには成功しなかった。
私たちが闘った福岡10区をみても、刺客といわれた自民党の西川氏が、民主党はいうにおよばず社民・共産の支持者からも支持を獲得していることを選挙結果からは見て取ることができます。
小泉自民党の勝利は、あの日本新党が誕生したときのような、あるいは民主党が現れたときのような期待をもって迎えられた。つまり国民は従来型の自民党を歓迎したのではなくて、それがあたかも「小泉新党」であるかのように錯覚にして期待を表明したのではないでしょうか。
なぜ錯覚を?
小泉首相は、非情にも身内を生け贄にして切り捨てて見せました。(切り捨てる基準は、実際は誠に曖昧なものであったのですが)これが改革を断行するリーダーが登場して自民党があたかも新しい党になったかのような錯覚を国民に与えることになったのです。実際、自民党は「新しい党になったのだ」との宣伝もなされていましたね。( 一皮むいてみれば、小泉自民党を支えるのは、あの山崎拓氏であったり、森前首相をはじめとする旧態依然政治の自民党です。あるいは「グリーン車に乗れる」ことを大喜びし、「お父さんお母さんが…」とのたまう子どものような議員だったりするのですが。)
これまでに、一時的にせよ政権交代が実現するなど自民対民主の二大政党の対決軸が明確になり、政治がダイナミックに動いていれば、これほどの期待は集めなかったかもしれません。
時代の閉塞感と漠然とした不安感のもとで「小泉新党」は、現状を打開する何かやってくれるのではないかとの期待を持たせることに成功したのだといえるでしょう。
結局は自民党が
しかし、この「小泉新党」が従来の新党運動と違う点は、それが政策や体系を伴っていないことです。この新党は「郵政民営化」以外何も示していないのです。それは、政権交代を訴えて登場し、マニフェストを示して政策論争を挑もうとしてきた民主党の姿と比較すれば明らかですね。過去の日本新党なども、新しい時代認識があった。
では小泉自民党は、今後、どのやって国民の期待に応えるか。これはとても困難な仕事になるでしょう。
小泉首相自身にしても、郵政民営化にこだわる以外の政策的体系を持っていない。その郵政民営化法案も中身を覗いてみればその実は「郵政公務員法」であるように、あるいは「道路公団改革」や「財政改革」が骨抜きになってしまったように、新党的な仕事は何もできそうもありません。
自民保守色には違和感
新たなサプライズで国民の期待をつなぎ止める道具があるとすれば、靖国問題や拉致問題、イラク自衛隊派遣問題などをはじめとする安保外交問題などが目を引きつけやすい選択肢となるでしょう。
その場合、森派をはじめとする従来の自民党保守色(場合によってはタカ派色)の強いものとなりそうですが、時代を逆回転させるかのような自民保守色に違和感が強い国民がこれにすんなりとついていくとは考えにくいですね。
一方で、自民党の一部に相変わらず超タカ派が存在し、社会には閉塞感や不安感がただようことから、小泉首相をヒトラーになぞらえてファシズムが誕生するかのように唱える論調が見られますが、私はそうは思いません。
なぜなら減少したとはいえ民主党や反戦を謳う勢力が一定のボリュームで政治的地所を確保していること。中国・韓国などとの経済関係の深さから与党内でも、超タカ派が歓迎される政治状況にないこと。小泉首相自身もタカ派的姿勢を演出し続けることが得策ではないことを理解できると思われるからです。
一時的な期待に終わる
結局は「小泉新党」への国民の期待は一時的なものになるでしょう。期待を裏切られた国民の反発は大きく、自民党政治を根本的に転換させる以外に方法がないことを、国民はその時改めて自覚することになることでしょう。
大ぐくりに言えば、今回の小泉自民党の勝利は、終焉期を迎えた自民党が身内を生け贄にすることによって国民に期待と錯覚を与えた結果、勝ち得たもののほかなりません。
公明との連立なしには延命出来ない自民党政治という政治の枠を、小泉自民党も超えることは出来ないと思われます。
今回の小泉自民党大勝という事件は、歴史的役割を終えつつある自民党政治の終わりがけに咲いた一輪のあだ花というべきものだと思うのです。