東日本大震災から12年-犠牲者へ鎮魂祈り

今日は、東日本大震災からはや12年。
私も午後、福岡市での会議に参加していましたが、会議の冒頭に、関連死を含めて2万2千人以上とされる犠牲者に改めて黙とうをささげ、御霊のご冥福を心よりお祈りした次第です。

12年前の、あの津波の発生の時、私は市議会で来客があり、その後、控室に戻ったところでした。テレビ画面に映し出される映像は、まるで映画のシーンのようで、とてもこの世のものとは信じられない光景でした。今でも決して忘れることはできません。
そして震災後10年目に、市議会本会議で北橋健治市長へ質問した際、東日本大震災への思いを述べたことがあります。その思いは、今も変わっておりません。
以下、一部ご紹介して、鎮魂の祈りといたしたいと思います。

<世良俊明>(令和3年3月10日、北九州市議会2月定例会一般質疑)
「本市の災害対策についてであります。北橋市長の心の籠もった御答弁ありがとうございました。10年の総括をいただきました。
実は、震災直後の発言でも少し申し上げたことがあったかもしれない、私ごとで大変恐縮なんでありますけども、私は学生時代、といってももう何十年も前のことでありますが、岩手県の北上山地のとある地域で教育のボランティア活動みたいなことをやっていたことがあります。
その地域からの帰り道などに、時々、三陸海岸の沿岸の町に寄り道をして帰ったことがありました。1970年代のことであります。

岩手県の現宮古市田老地区に立ち寄ったときには、そこには既に高さ10メートルの大防潮堤が設置をされていました。
そこで、何でこんなに大きい防潮堤が必要なんですかとお聞きしましたところ、私に、土地の方は、昔大きな津波が来てなあと、それに備えているんだというお答えをいただいたのでありました。
私は学校に帰ってから資料などを読んでみますと、なるほど確かに、明治29年の大津波、昭和8年の大津波など、三陸沿岸地方を繰り返し襲った大津波の記録がございました。
しかし、当時の私は、きっと自分の生きている間にはこんな大津波など起きるはずがないと何となく感じていたのでありました。

それだけに、あの10年前の3月11日、三陸海岸の町を次々にのみ込む大津波の映像、市議会の控室でぼう然と立ち尽くしていたことを思い出します。想像を絶した大震災は、私のそれまでの甘い考えを吹き飛ばしてしまいました。
そして、御答弁にもありましたように、震災当日、学校の管理下の児童生徒で一人も犠牲者を出さなかったことで釜石の奇跡と言われた防災教育を長年担当された当時群馬大学大学院の片田敏孝教授を座長にお招きして、幸いにも本市の地域防災計画の見直しが始まりました。
そして、本市の防災対策の基本方針も大きく転換をすることになったと思います。

しかし、当時は、私が東大地震研究所でヒアリングをした後に、想定を超える災害でも命を守る減災の考え方で市の防災計画の転換をするべきではないかと報告をいたしますと、議会の仲間たちからでさえ、せっかく北九州市は地震がないと言ってきたのに、そんなことを言ったら企業誘致が進まなくなるではないかとの声が上がったりしたのであります。

三陸海岸大津波という作品で、明治、昭和などの大津波のすさまじさを描いた作家の吉村昭さんは、後書きで、田老地区の古老の話として、津波は時世が変わってもなくならない、必ず今後も襲ってくる、しかし今の人たちはいろいろな方法で十分警戒しているから死ぬ人はめったにないと思うとの言葉を紹介していました。
しかし、東日本大震災では、そうではありませんでした。災害を風化させずに命を守り抜くことがどれほど難しいことか、改めて思わずにはいられません。
東日本大震災から10年、私たちは、根拠なき安全神話から脱却をして、自然災害に対する科学的知見を積み重ねつつ、正しく恐れながら、災害時には命と暮らしを守るすべをみんなで身につけることが求められていると感じています。
そのための本市の地域防災計画の改定であり、防災ガイドブック、ハザードマップの作成配布だと思います。
ぜひ多くの知恵と工夫を重ねて、近い将来やってくる大災害でもみんなで命を守り抜く減災の取組を進めていただきたいと要望しておきたいと思います。」

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