小倉城が再開館!

近年、外国からのお客様にも人気がでてきた北九州観光名所の一つ、小倉城は、耐震工事等のため休館していましたが、このほど竣工し、12月14日に再開館記念式典が行われました。(当日の模様は世良俊明フェイスブックもご参照ください。)ぜひ多くの観光客が小倉城を訪れてほしいものです。

 

そこで小倉城の歴史と話題について少し。

小倉城は1600年の関ヶ原合戦の当時は西軍・毛利勝信の所領でしたが、これを黒田官兵衛が開城させた後、領主となった細川忠興が1608年に完成させて入城、初代小倉藩主となりました。

細川忠興は、あの細川ガラシャ夫人の夫。自らはキリシタンではなかったものの、当初はキリシタンを保護し、当時の小倉にもスペイン人宣教師が出入りし、複数の天主堂(教会)もあったそうです。

 

小倉城の造りは「南蛮造り」(もしくは唐造り)と言い、5階が4階より大きくなった特徴的なつくりですが、これらは当時の宣教師の中に建築を良くするものがあり「天守閣造営に際して国主は同宣教師の説を入れてギリシャ風をカミしたる由」と小倉藩士の記載があります。当時盛んになったキリスト教の影響がみられるのですね。(黒田官兵衛・如水も最後まで敬虔なクリスチャンであったことは良く知られています。)


小倉城天守閣.jpg

 

創建当時は破風などのないシンプルな造りであったのが、昭和34年に現在の小倉城が再建された時、観光のための配慮として破風などが付け加えられたのだそうです。(それが良かったのかどうか、ですね。)

創建当時の姿は残っていませんが、岡山市の津山城が小倉城をモデルとした城であったことが知られています。津山城は古い写真が残っており、創建当時の小倉城もこれに似た造りであったことでしょう。

津山城主・森忠政が家臣に命じて、ひそかに小倉城の姿を写し映し取っていたのが発覚、ところが細川忠興はこれを咎めることなく城郭図を津山に送ったほか、完成にあたって「朝顔の半鐘」という鐘を贈ったとされています。

忠興の心の広さを示すエピソードですね。


津山城.jpg

実は細川忠興はその後、ガラシャ夫人と宣教師セスペデスの死後、次第にキリシタンを弾圧するようになり、最も冷酷な迫害者の一人になっていきます。遣欧使節団として12歳でローマにわたった中浦ジュリアンが逮捕されたのも小倉でした。

作家の劉寒吉さんは、編集執筆にあたった小倉市政50周年記念誌「小倉」(昭和25年刊)の「きりしたん物語」の章で「かつては異国のうるはしい楽器の音と、こんたす(珠数)をつまぐって念ずる おらしょの敬虔な声に満ちた天上の楽園だった小倉も、キリシタンにとっては業苦にさいなまれる いんふぇるの(地獄)と化した。」と書いています。


小倉城再開館(2014年12月14日)-5.jpg

 

ぜひ小倉城にお越しいただいて、歴史を感じるひと時をお過ごしください。

写真は、現在の小倉城天守閣。津山城の古写真。それに小倉城再開館のイベントに駆けつけてくれた熊本城おもてなし武将隊の細川忠興さん(もちろん彼は心優しくサービス精神豊かな若者です。)

 

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