本ホームページ11月16日の記事でお伝えした神嶽川浚渫時に発見された「お地蔵さん?」(写真)について、市の調査結果のご説明をいただきました。
調査により判明したことは、およそ以下のとおり。
「この石造物は、表面上段に仏像が刻まれ、下段に智閑童子、横面に宝暦十二年(1762年)の銘がある。
智閑禅師は唐代末の高僧の名、童子は子どもの意であり、智閑童子は高名な僧の名を付けた戒名(法名)であろうか。本石仏は幼くして亡くなった子どもの供養塔、墓石等であろう。この墓石あるいは供養塔は洪水等で川に流されたものであろう。
仏像頭部の摩耗が著しいが、年号の明確な供養塔あるいは墓石として江戸時代中頃の葬送儀礼の一端を知ることのできる貴重な歴史遺物である。」というものでした。
やはり「智閑」の文字は智閑禅師のことで、250年ほど前の供養塔もしくは墓石だったようです。
1762年頃と言えば、小倉藩では小笠原忠総(ただふさ)の代。与謝蕪村や平賀源内、伊能忠敬などが存命していた時代です。
という訳で、この墓石は貴重な歴史異遺物であり埋蔵文化財として県に登録する手続きを経た上で、市の収蔵庫に収められることとなりました。
また、同時に川から発見された「宝来橋」の親柱の方は、宝来橋が江戸期には存在せず、昭和2年以降になって存在することが確認できるとして「宝来橋は明治以降に築造されたと推測されるが、今回発見された親柱がどの時期のものかは不明である」ということになりました。
これは浚渫で出てきた他の木材とともに「産業廃棄物」として処理されることになりますが「念のために、写真を撮り、寸法等がわかるようなものとして保存しておくこと」を確認しました。宝来橋の築造経緯など、関連情報をお持ちの方は、今後もお知らせいただければ幸いです。
先月の浚渫による発見以来、この墓石や宝来橋について、市の文化振興課を中心に方々手を尽くして調べていただいた関係者の皆さんに心より感謝申し上げる次第です。
また、本ホームページやフェイスブックを通じて、この墓石の行く末をご心配いただいていた多くの皆様に「貴重な歴史遺物として」市で「大切に保存する」というご報告ができることを喜んでおります。
高僧の名前のついた戒名を持つ墓石ですから、供養された子どもはきっと賢い子だったのでしょうね。市の収蔵庫で、これから安らかに眠ってくれることでしょう。