第56回武蔵・小次郎まつり

剣豪・宮本武蔵と佐々木小次郎による巌流島の決闘が行われたのは慶長17年(1612年)の4月13日のことだとされています。4月13日に一番近い日曜日に毎年、小倉北区手向山公園で「武蔵・小次郎まつり」が行われてきました。56回目の今年もお招きいただきましたので伺いました。
今日は昨日とうって変わっての晴天。その代わり大変気温が低く、お年寄りなどにはちょっとつらい日だったせいか、全体の参加者は昨年よりも若干少なかった気がしました。
それでも慰霊祭にはじまり、式典、演武の奉納や剣舞、剣道大会や演芸会など多彩な行事が行われ多くの方が参加される一日となっていました。

手向山公園には武蔵の養子で小笠原藩の家老であった宮本伊織が建てた顕彰碑があり、ここに書かれた千字余りの碑文が全ての宮本武蔵伝の出発点となりました。
吉川英治さんや村上元三さんの小説などで、剣豪・宮本武蔵は世界的にも知られるようになりましたが、その全ての原点はこの碑文なのです。

ところで伊織は武蔵を顕彰するのに、なぜ碑文を漢文で書いたのか。当時の上級武士は当然の教養として純正漢文が書けた。伊織の後、五代将軍綱吉の時代には王朝時代に次ぐ日本漢文の2番目の黄金時代を迎えることになるのですが、武蔵の偉業を顕彰するのに小笠原藩の家老・文化教養人たる伊織にとっては純正漢文の碑文が当然だったのでしょう。(以上の、教養としての漢文の歴史などについては加藤徹先生の『漢文の素養』(光文社新書)によります。大変興味深いご本でした。)

武蔵と小次郎の原点となった千字余りの碑文は、いろいろな意味で興味深い大切な歴史的遺構です。今後とも大事にしたいものです。
「それにしては、そのことが余りに知られていないよねえ」と、誰かが言ってましたっけ。そのとおり。私もことある毎に誰彼なくお話しているのですが、それが現実。この碑文や小次郎の碑も含めてもっともっと全国に知られるよう市レベルでも工夫したいものですね。

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