没後70年久女忌

今年の1月21日には、北九州市が生んだ天才女性俳人・杉田久女の没後70年を記念する久女忌が行われました。

小倉北区圓通寺で行われた久女忌では、まず主催する久女多佳子の会の柿本和夫会長が「当会が久女忌を開催して20年ですが、20年数年前は、久女の評価もいろいろでした。しかし現在では、日本を代表する俳人としてゆるぎない評価を得ています。このことを後世の人に伝え、知ってもらうことが都市文化の土壌を豊かにしていくのではないかと思っています」とご挨拶。

北橋健治北九州市長のご挨拶のあと、久女の孫にあたる石太郎さんは「毎年、柿本会長をはじめ多くの皆様が久女忌を続けて下さっていることに感謝しています。こうした活動・俳句を通じた取り組みは、我々が失っていけない日本の精神文化であって、それを受けついで行くことが大事であり、私たちの役割だと感じています」と自らの杉田宇内の故郷での取り組みを紹介されながらご挨拶されました。

その後、園通寺和尚による読経、久女の愛した白菊の献花、献句三句のあと、特別講演となりました。その没後70年を記念する特別講演をして下さった、杉田久女研究の第一人者・坂本宮尾東洋大学名誉教授は、講演の中で、師である高浜虚子の拒絶により句集が出せずに苦闘している姿に、坂本先生の師匠でもある山口青邨が「哀れで涙がでる」と記したエピソードや、正岡子規編集の俳句全集の栞で虚子の序文付きで句集が発刊される予告が出されたことが、さらに虚子の機嫌を損ねたのではないかなど新たな発見なども紹介されながらお話されました。


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虚子の拒絶は、俳句結社の経営者として、娘の星野立子など他の女性俳人への影響を危ぶんだものだったのではないかとも指摘されていました。また、悲劇の人として語られる久女は、必ずしも悲劇の人ではなかった。それは、お嬢さんによる生涯をかけた句の保存、写真を含めた資料の収集、また北九州市立文学館などによる資料収集保存など、これほどの取り組みをされている俳人はほとんどないこと、そして「何よりも久女の句が自分も含めて人々の心をつかんではなさないすばらしさを持っており、今日の皆様もその魅力にひかれて集まって下さった。ある意味でラッキーな俳人かもしれません。」と述べておられました。

 坂本宮尾先生は、今後も久女研究を続けられるとのことであり、市立文学館をはじめ北九州市における久女顕彰活動にもご協力をいただけるとの意向をお示しいただきました。 感謝申し上げながら先生の更なるご活躍をお祈りした次第です。

この日の模様は、地元テレビをはじめ新聞各社の記事として報道されました。久女忌の実施にご協力いただいた関係者の皆様のご努力に心より感謝申しあげます。

なお杉田久女を語るページと題する久女多佳子の会ホームページもございます。是非ご覧下さい。

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