ねえきいてっちゃ!北九州人権フォーラムのころ

国連が「子どもの権利条約」を採択したのは1989年でした。
翌1990年、北九州市でも、子どもの権利を考え、日本での早期批准をめざして取り組もうと「北九州人権フォーラム」がスタートしました。
最初に企画して開催を呼びかけたのは、実行委員会代表となる弁護士の

第一回北九州人権フォーラム資料表紙

服部弘昭さん、部落解放同盟の役員・岩田千明さん、新聞記者の須山賢治さん、そして当時、市議会議員になったばかりの私・世良俊明の四人でした。

同年11月3日に、まず、子どもたち自身が自分たちの状況を話し合う「子どもティーチイン」を先行して実施、11月25日に「アジアと日本の子どもたち-貧しさと豊かさのなかで」と題して、フィリピンのストリートチルドレンについての映画と講演。日本の子どもたちの現状については、当時、10代の様々な悩みの解決に取り組んでいた青生舎主宰の保坂展人氏(現・世田谷区長)に講演をお願いして開催しました。

パネルディスカッションでは、弁護士さんや、北九州市児童相談所長、中学校教師、そして子どもの権利条約の批准を求める10代の会代表(当時)の菅源太郎君にも参加してもらって、学校での子どもたちの権利状況と今後のあり方などについて話し合っていただきました。

北九州人権フォーラムは、その後、10年以上にわたって活動を続け、アジアや紛争地の子どもたちの現状や、日本の子どもたちを取り巻く課題などに様々な角度から焦点を当てて、解決への道筋を考えてきました。
日本政府も、国連採択から5年後の1994年4月に同条約を批准、現在に至ります。

いまでこそ「子どもの権利条約」については、国内でも広く知られるようになりましたが、頻発する児童虐待や、若年層の自殺など、子どもたちを取り巻く現状には、今なお大変厳しいものがあると言わざるを得ません。
とはいえ、北九州人権フォーラムが、いちはやく日本や世界の子どもたちの現状に視点をすえて、課題の解決にむけた取り組みの必要性を訴え続けた意義は決して小さくないと自負しています。
子どもたちを権利の主体としてとらえなおし、当時は当たり前のように繰り返されていた学校での体罰事件や、児童虐待などへの問題意識をもって解決に取り組んでいたのは、当時としてはとても先進的なことでした。
タイトルの「ねえきいてっちゃ!」は、子どもの権利条約にうたう、子どもの意見表明権を、北九州弁で表したもの。フォーラムでは、子どもの権利条約を、北九州弁で子どもたちにも分かりやすく解説した「子どもの権利条約っち なあーん?」というパンフレットも発行したりしました。

また、これらの取り組みには、多くの著名人も賛同して下さり、自らご参加いただくなど多くのご支援をいただき

子どもむけ解説パンフ(北九州弁)

ました。
ジャーナリストの斎藤茂男さん、フォトジャーナリストの長倉洋海さん、小児科医師の毛利子来さん、歌手の新谷のり子さん、アムネスティ・インターナショナルのイーデス・ハンソンさん、画家の田島征三さんなどのほか、多くの多彩な方々にご支援をいただきました。心から感謝申し上げる次第です。

代表の服部弘昭弁護士は、第一回目のフォーラムにむけて「何をどのように改善していけば、子どもたちに希望あふれる生活と輝く未来を与えることができるのでしょうか。子どもたちを、ただ単に管理、保護の対象として見るだけでなく、固有の権利を持った主体としてとらえ、人間らしく生き、成長する場と環境を、どのように保障すればよいのでしょうか。」と問いかけました。
十年以上続いた北九州人権フォーラムの活動も、21世紀に入って終了していくこととなりましたが、この活動の中で育ってきた若い人々をはじめ、参加した多くのメンバーの心には、北九州人権フォーラムが問いかけた問題意識は、今も脈々と受け継がれているものと思っています。

なお、北九州人権フォーラムの代表として活動をリードしてこられた服部弘昭弁護士は、2020年9月20日、難病の進行により急逝されました。
ご生前のご活躍とご貢献に深く感謝申し上げつつ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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